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向山洋一のドラマ

DRAMA #1

第一子誕生

女房と赤ちゃんの陣痛を共にしながら、私は私がかわっていくように思えた。
「男の子と女の子とどちらがいいですか」と聞かれると、私は次のように答えるようになっていた。「どちらでもいいです。どちらがいいなんてうまれてくる子に失礼です」
「五体満足ならいいわよね」と言われると、次のように答えた。「五体満足でなくてもいいです。どのようにうまれてこようと、私は父親なのですから、すべて受けとめるつもりです」きざな表現だが、私は心の奥底からそう思った。「どのようにうまれてきてもいい。私は父親なのだ」と……。

長い陣痛の末、結局帝王切開でうまれた。(臍の緒が)首に二重にまきついていたからである。しかし、この陣痛は、親と子どもにとって大切なことだったと思っている。母子共に経過は順調である。
病室を整理していると、女房の出産日誌があった。私は初めて目にした。陣痛からの経過を4ページ、私は書き足した。上に書いたような内容もつけ加えた。
そして、「私は君に出逢えてたいへん幸せです。娘へ 父より」と結んだ。

「娘へ 父より」と書くとき、胸の底から身体全体をかけめぐるような、ずしーんとしたふるえを感じた。

(学級通信『ランダム』を一部修正)

DRAMA #2

青春時代の経験

私は、大学時代、学生運動の責任者をしていた。
学生寮を改善するとか自治を守るとかということで、しばしば「紛争」になった。時には、「全学ストライキ」となり、それが長期にわたることもあった。
「全学ストライキ」をすると、10名ほどの学生が退学処分になる。留年する人は数十名にのぼり、退学する人も出る。時には、精神に異常をきたす人や自殺する人まで出る。

「全学無期限ストライキ」のときは、毎日のようにクラス討論をし、毎日のように学生大会を開く。
学生大会には、「今、どういう状態で、何をしなくてはならないか」という方針が提案される。提案は、いくつかの団体から出され、これらの団体は、それぞれ敵対的な関係にあった。
この「提案」つまり「指示」は明確でなくてはならない。「あいまいさ」があるもの、「何を言っているのか分からない」ものは、学生大会で否決される。
退学処分・退学・留年・精神障害・自殺……。1つの「指示」が、多くの人の生き方を変えてしまう。こうした重荷を背負って、私は、無期限ストライキの間、毎日毎日この「指示」を書き続けた。
学生大会では、私の書いた「指示」に対し、賛成意見だけでなく反対意見も出る。しかし、しっかりとした「指示」なら、論戦に耐えられる。いいかげんな「指示」は、状況を爆破してしまう。

このように、私は、1つの「指示」が、人生を左右してしまう状況の中で、学生生活を過ごした。
そして、学生運動に挫折し、教師になった。

(向山洋一『授業の知的組み立て方』を一部修正)

DRAMA #3

向山先生は教えない

私のクラスの結果を見て、隣のクラスの先生が休み時間に子どもたちに言ったという。
「とてもいい成績ね」
子どもたちは答えたという。 「向山先生の教え方がいいからよ」
隣のクラスの先生も「そうだ」と内心思った瞬間、一人の女の子が言ったそうだ。
「でも、向山先生は何も教えてくれないよ」

これは、実に象徴的なエピソードだ。
学年会でみんなに紹介されたのだが、私は「なるほど」と思った。
私は、「教師が教える」ということを、あまりしないのだ。「子どもが、自分で学んでいく」 というシステムを作るのである。
教師の仕事は「学習するシステムを作る」のが第一で、「教える」のは第二であると思っている。子どもが自分で勉強して、教師は時々相談にのる――こういう形がいいと思っている。
実は、このような考えは、私の「討論の授業」などのスタイルにもあらわれている。
「でも、向山先生は何も教えてくれないよ」と言った私のクラスの子どもの言葉は、そのことを象徴している。
教えてくれないにもかかわらず、全員漢字テストができるのである。計算テストなども同じである。

(向山洋一『プロ教師への道』を一部修正)

DRAMA #4

子どもを大切にするとは

教師として、子どもを大切にしているかどうか。
この問いに対する私の基準は、たった1つである。

「クラスで最も勉強のできない、人に嫌われている子が教師のひざの上にのったことがあるか。そのようなことが日常的に生まれているか」

クラスで最も嫌われている子がひざの上に来るような教師なら、「子どもを大切にしている」と判断する。
ひいきをする教師には、そのようなことは生まれない。口先だけうまいことを言う教師でも駄目だ。子どもは敏感なのである。
内心「嫌だ」と思っていることは相手にも伝わる。「鏡の原理」が働くのである。
「最も嫌われている子がひざの上にのる」ことは簡単ではない。どうしても通過しなければならない心の革命を必要とする。
それは、次のことである。
「いかなる状態のいかなる考えの子も、すべてを温かく包み込める」
教師は人を教えて育てるという恐ろしい営為を仕事にしている。
人を「教え」たり、人を「助け」たりする仕事の人が、絶対に必要な心構えがある。
それは、「教え」たり、「助け」たりする人を丸ごと受け入れるということである。包み込めるということであり、温かく接することができるということである。
「ぼく、先生なんか大嫌いだ」と憎らしく言う子をも、なお受け入れ包み込まなければならない。これが、教師という仕事の宿命なのである。
子どもたちのすべてを受け入れ、包み込み、そしてさらに「子どもの可能性を伸ばそうという努力」が重なったとき、子どもは別の表情を見せる。

(向山洋一『学級経営の急所』を一部修正)

DRAMA #5

「ぼく死にたいんだ」

放課後、雨の校庭をながめていた時だった。4年生の男の子がぼくのそばに来て、しばらく休んでいた。
彼はしばらくして「ぼく死にたいんだ」と、ぽつんと言った。
「どうして?」と、思いがけない言葉を聞いて、どぎまぎしながらたずねた。
「ぼく、馬鹿だから……」と、はっきりとした口調で答えた。
「そんなことないよ。馬鹿なんていないよ。努力すれば誰だってできるようになるよ」と話すと、「ぼくは何をやってもだめなんだ」と言って、また雨の校庭に視線を移した。
30分近く、ぼくは熱心に話を続けた。帰りがけににっこり笑って帰っていった。それが、ぼくとHとの出会いであった。 日がたって、Hがすごく乱暴をするということを聞いた。友人の学用品を毎日のように、窓から投げ捨てていた。石を女の子に投げつけたり、止めに入った教師にまで投げつけたりしていた。さらには、カッターナイフを持って、「殺してやる」と友人を追いかけ回した。
彼が、わんぱく坊主と違っていたのは、教師が間に入っても、目は血走り、つりあがり、まるでいうことを聞かなかったことだった。

5年生になって、その子を、ぼくは担任することになった。
「馬鹿だから、死にたい」と、ぼくに言っていたその子の言葉が耳にこびりついていた。
卒業生を出した余韻が残っている3月28日、ぼくは一人で勉強を始めた。
春休みにぼくが目を通した本は52冊であった。Hは発作の病気を持っており、学習が著しく遅れていた。ぼくが読んだ本の中では、そうした子はどの子も手のつけられない乱暴を働いていた。そして、悲しいことにその乱暴がなおったという報告は見当たらなかった。
ぼくは、何人もの医者を訪ね、聞いて回った。どの医者も共通して次のように語った。
「それは病気を原因とした第一次障害ではありません。第二次障害です」
「教育可能です。なぜなら、意志の交流ができ、本人に病識があると考えられるからです。大変でしょうが、そこから先は先生の仕事です」
そうした話を聞くうちに、「病気のせいだから、教育は不可能ではないか」と心の片隅で思っていた危惧も薄れていった。
春休みの4月1日、前担任からの引き継ぎをおこなった。どうしたら良いのか分からないぼくは、事実を一つ一つ確かめ、原則的な教育方針を考えていこうと思っていた。
校長の了解をとって、春休み中ではあるが、母親と面接した。出産の時の状況から、生育史、親の考え・望みや子どもの日常生活に至るまで詳細に聞き出した。
ぼくは、親に、「力を合わせてがんばりましょう。教師を仕事とするぼくは、自分のすべての力を賭してあたっていきます」と言った。そのあと、「さしあたって、算数の勉強などの『できないこと』をやらせるのではなく、『手伝い』『自分のことは自分でする』などの『できること』をさせるようにしてください」など、気をつけてほしいことをいくつかお願いした。

彼の神経は鋭敏で、ナイーブであった。ごまかしのまったく通用しない彼に、ごまかしのない教育を持続させねばならなかった。ぼく自身の弱さ、甘さ、嘘、ごまかしを、射続けられるかどうかが鍵であると思った。弱い自分自身を変革するために、自分の弱さをあばき、射続ける決意をこめて、学級通信を「スナイパー(射撃手)」と名付けた。

(向山洋一『教師修業十年』を一部修正)

DRAMA #6

悪人じゃないが鈍感すぎる

昔からの友人でコンピューター技師をしている男がいる。貧しい生活で給食費等も満足に払えなかったという。彼は教師に対して、うらみつらみを山ほど持っていた。
当時の彼は「給食費を忘れた人は立ちなさい」と言われるたびに、屈辱を身に刻んでいた。

ある夜、酒をくみかわしながら、教師のひどさについて話し合ったことがあった。ぼくは教師になってから見聞きしたことを、彼は自分の体験をしゃべった。
ぼくは調子にのって、教師の悪逆非道をしゃべりまくった。ぼくが「教師ほどひどい人間はない」と言った時、彼は「ちがう」とさえぎった。
そして、きっぱりした口調で、「ぼくは教師に悪人はいないと思う。少なくともぼくは悪人の教師を一人も知らない。ぼくの教わった教師はみんな良い人であった。ただし鈍感な教師は多すぎる」と、言ったのだった。
ぼくは彼に恥じた。自分が教師であるのに、他の教師の悪逆非道を自分と関係ないように話したことが恥ずかしかった。そんなぼくよりも、彼はもっと本質的なところで的確に、教師の欠点をとらえていた。

「悪人はいないけれど、鈍感な人が多すぎる」
これは実に的を射た言葉である。「子どもにあやまれる教師はいい教師だ」などと言われる甘い世界なのだ。まちがいがあれば正すのは、ごくあたりまえなのに、それがことさらに言われるところに、教師のひどさはある。
親も、よほどのことでなければ言わない。教師同士でも、年に数回の研究会でさえ、その多くはあたりさわりのないことを言ってお茶をにごす。これで、鈍感にならなければ不思議だ。
自分自身に対して、きびしすぎるほどに律していける人でなければ、確実に鈍感さを塗り重ねていく。

「お母さんに、ぞうきんを縫ってもらいなさい」という言葉でも、父子家庭はいないか、夜遅くまで働いている母親はいないか、病気で寝ている母親はいないかと、気にしながら、心を配りながらぼくは言う。何気ない一つ一つの言葉に、家で働かざるをえない子、父親のいない子、失業している家の子、机のない子、障害のある子、こうした一人一人のことを意識しなければいけないのである。

(向山洋一『教師修業十年』を一部修正)

DRAMA #7

向山学級最終章のドラマ――1人だけの卒業式

体育館は、卒業式のときのままだった。
わたしは、ゆったりとした足取りで、2人を体育館に案内した。
女の子を、自分がすわるはずだった6年1組の席に、腰かけさせた。
保護者席に、お母さんがついた。
卒業生席、在校生席、保護者の広いブロックに2人だけだ。来客席は誰もいない。
教職員席に、15~6名の先生方、主事さんがついた。

私は、ピアノの前の司会者席に立った。
「ただいまから、平成11年度、東京都大田区立多摩川小学校の卒業証書授与式を行います。一同、起立」
2度目の卒業式は始まった。たった1人の子のための卒業式である。
「卒業証書授与。6年1組○○○子」
欠席していた子は、みんなと同じように壇上にあがり、校長先生から卒業証書をいただいた。教職員から拍手が起きた。
「以上、男子33名、女子34名、計67名」
午前の式で言った「欠席1名」がぬけた。
「校長先生の祝辞」
舘野校長先生が、3時間前と同じように壇上に進み、祝辞を述べ始めた。
今度は、一人の子に語るように話した。
「卒業生、在校生による呼びかけのかわりに、教職員による門出の歌を歌います」
呼びかけの中に入っていた曲を2曲、先生方と主事さん方が歌った。
先生方の歌声は、力強かった。20人ほどの歌声が、体育館いっぱいに響いた。
私は、先生方、主事さん方に、心の底から感謝した。

女の子は泣き崩れていた。
あとで「私のために、こんなに立派な卒業式をやってもらってうれしかった」と、しゃくりあげながら言っていた。
「卒業生退場」
私は、6年1組の席の前に立った。
両手で、「起立」を指示した。
退場の曲が流れる中を、担任の私と卒業生の女の子は、2人で退場した。
拍手が長く続いていた。
女の子は目を真っ赤にして、ハンカチで、あふれる涙をぬぐっていた。
退場して、私は教室に向かった。
教室で「持ち物」を確認した。
「立派な卒業式だったね。たくさんの先生方に祝福されて、よかったね」
泣き続ける女の子に、私はお別れの言葉を言った。
教室にいたのは10分ぐらい。
2人で、玄関に向かった。
玄関には、先生方、主事さん方が、卒業式のお別れに使う「ピンクの色紙でつくった花のついたアーチ」を持っていてくれた。
別れの曲が流れる中、女の子は1つ1つのアーチをくぐった。
先生方から、声をかけられ、握手をした。
校長先生も教頭先生も、大きな声で、励ましていた。
アーチの中を女の子は進み、母親と一緒に校門を出た。
2人は何度も、私たちにおじぎをしていた。
さわやかな感じだった。
「よかった」という思いがいっぱいあった。
先生方、主事さんの声は、はずんでいた。
「本当にありがとうございました」
私は先生方、主事さん方に深々と頭を下げた。
これが、私の最後の卒業式だった。

私の教師人生の終わりに、神様は大きなドラマを用意してくれていた。
1人1人の先生方、主事さん方が神々しく見えた。
教師というのは「最も教師らしい場」でその本領を発揮するのだと思った。

(向山洋一『保護者が信頼する”教室の統率力”』を一部修正)