1959年4月、都立小山台高校に入学。1年生の秋、生徒会長に選出される。
この頃、在日朝鮮人の帰還問題は、大きな社会的なテーマのひとつであった。向山は、他の都立高校61校の生徒会長とともに「日朝高校友好協会」を創設し、その進行役を務めた。この在日朝鮮人の帰還問題と、翌1960年の日米安全保障条約の強行採決は、向山にさまざまな社会問題への覚醒のきっかけを与える。のちに向山と結婚することになる佐藤浩子は、高校時代の同級生であり、ともに学生運動に没頭した同志でもあった。
高校時代の向山は読書家でもあった。高等学校の図書館の本には「貸出カード」が付いており、借りた人の名前を示すしくみだった。当時、どの本を開いても向山の名前が記されていたという。
また、当時の手帳やノートには、自作の詩文、手紙の推敲などが多く残っている。ちなみに、学友歌(当時)「都立小山台高校逍遙歌」は、向山による作詞・作曲である。
1964 年4月、東京学芸⼤学初等教育学部に⼊学。
大学でも、向山は学生運動にますます多くの時間を費やす。(この頃の学生運動はまだ穏やかな時代であった。)
1967 年、学生寮の寮長だった学生が無期停学処分を受けたことがきっかけで、処分撤回を求めて全学ストライキ(授業ボイコット)を開始。この全学ストライキの解除に関する基本方針の対立が、向山を学生運動から離れさせる原因となった。
1966年、東京学芸⼤学附属世田谷⼩学校にて教育実習。1967年、東京学芸⼤学附属世田谷中学校にて教育実習。同年、⼤⽥区⽴⽥園調布⼩学校にて教育実習。当時の児童や指導教官から絶大な支持を受ける。これらの教育実習での体験が、向山を教師という仕事に進ませる契機となる。
教師になるにあたり、向山が唯一心に決めていたのは、「スローガンや理念ではなく、子どもの事実だけに依拠していくこと」だった。向山が青春のすべてをかけた学生運動から得た対価であった。