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向山洋一ヒストリー

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教師修業期 1968-1984

向山の全国デビューは山梨での全国教育研究集会(1972)

校務の中心を担いつつ、後に「向山型」と
よばれる授業システムの原型を創りだす

向山は、新卒からの7年間を大田区立大森第四小学校で過ごした。教師修業のはじまりである。
勉強ができる子だけが活躍するクラスにならないように、以下の実践を生み出した。

  • ・教師が指名することなく、子どもたちが次々と発表していく「指名なし討論」
  • ・どの子もリーダーになることを保証した「ジャンケン立候補」
  • ・子どもたちが企画・運営する「向山学級大パーティ」

向山は、「差別のない」「自由で平等な場からの学級づくり」を目指したのである。また、20代でありながら、「通知表の改訂」「児童活動(特別活動)の研究」の中心にもなった。

向山学級一代目の子どもたちと(1972)
向山学級一代目の子どもたちと(1972)

赴任した翌年の冬には、既存の研究団体に属さない自主的な研究会「京浜教育サークル」を立ち上げる。以降、向山のさまざまな実践研究の拠点となった。

石黒・井内たちとともに「京浜教育サークル」を立ち上げた向山(1970)
石黒・井内たちとともに「京浜教育サークル」を立ち上げた向山(1970)

次の大田区立調布大塚小学校では、のちに「向山型」とよばれる数々の授業システムの原型を創り出した。子どもたちが言葉を根拠に討論をする国語授業をはじめ、社会科や理科でも独創的な実践を行う。生活指導主任、校内研究主任、教務主任としても学校を支えた。当時の大田区内61校で、最年少の教務主任であった。
また、「『出口』論争」「跳び箱論争」が起こり、日本最大の教育運動「教育技術の法則化運動」を立ち上げる契機となったのも、この時代である。
調布大塚小学校では、法則化運動立ち上げ後も含め、11年間を過ごした。

向山学級の「逆上がり全員達成」パーティー (1982)
向山学級の「逆上がり全員達成」パーティー (1982)

1980年、東京都教育研究員になったのを契機に、マスコミや出版社から仕事が入るようになり、学校外において、NHKの人気番組『クイズ面白ゼミナール』の教科書問題作成委員や『進研ゼミ 小学講座』(ベネッセ)の開発責任者、千葉大学非常勤講師などを務めた。

デビュー作『斎藤喜博を追って』の直筆原稿(1979)
デビュー作『斎藤喜博を追って』の直筆原稿(1979)
NHK「クイズ面白ゼミナール」の台本(1981頃)
NHK「クイズ面白ゼミナール」の台本(1981頃)

教師修業期年表

大森第四小学校時代

1968
羽田空港近くの大森第四小学校に赴任し、3年生の担任となる。この年、向⼭が唯⼀の師と仰ぐ⽯川正三郎氏も新任校⻑として赴任
1969
同じく大田区に赴任した石黒修氏、井内幹雄氏、松本昇氏らと自主的な研究会「京浜教育サークル」を立ち上げる
当時、「固定された評定人数」「画一的な評定」が問題となっており、新卒2年目の向山は「評価委員会」の責任者として校内の意見をまとめ、通知表の改訂に取り組む
1970
高校時代の同級生だった佐藤浩子と結婚
1971
「児童活動(特別活動)の研究」がスタート
1972
1月、全国教育研究集会(山梨大会)に東京都の代表として参加。「自由で平等な場からの出発」と題した実践を発表。全生研の実践家と論争を繰り広げる研究紀要第1集『大四小の児童活動』を発行

調布大塚小学校時代

1975
調布大塚小学校に赴任
1976
『やまなし』(宮沢賢治)の公開授業を分析批評の授業で行う
1979
デビュー作『斎藤喜博を追って』(昌平社)出版
1980
「『出口』論争 ―教室からの発信」と題した投稿論文が『現代教育科学』(明治図書)に掲載。この投稿論文を契機として「『出口』論争」に参戦
東京都教育研究員になる
1981
一人娘 恵理子、誕生
NHK「クイズ面白ゼミナール」の教科書問題作成委員となる
『現代教育科学』誌上で「跳び箱論争」が始まる
『進研ゼミ 小学講座』の開発責任者となる