1984年、向山は法則化運動をスタートさせ、その代表となる。
1986年、大田区立雪谷小学校に赴任。雪谷小学校での9年間は、学級担任、教務主任、校内研究主任、生活指導主任として学校の中心を担った。一方、法則化運動はTVや新聞等で大きく取り上げられ、社会現象となっていく。
教育雑誌『教室ツーウェイ』(明治図書)、『教育トークライン』(教育技術研究所)の創刊、ジュニア・ボランティア教育の創設、米国スミソニアン博物館との「地球環境展」準備、中国の上海師範大学との共同研究など、向山は多忙な日々を過ごす。『五色百人一首』(教育技術研究所)、『あかねこ漢字スキル』(光村教育図書)などの教材開発にも力を注いだ。
次の大田区立池雪小学校では、4年間を過ごした。池雪小学校では、算数専科として4年生の算数のティームティーチング(TT)を担当した。この池雪小学校での体験から誕生したのが、「向山型算数」である。
この時期からスタートしたセミナー「向山洋一教え方教室」は、1〜2年先までキャンセル待ちが出るほどの大盛況。『教室ツーウェイ』は、発行部数記録を次々と更新した。
その後、向山は、大田区立多摩川小学校での1年を過ごし、32年間の教師生活を終える。
多摩川小学校の最後の卒業式では、事情により遅れた1人の子のために、教職員全員が参加して「たった一人の卒業式」を正式に行った。向山学級最後のドラマであった。この「たった一人の卒業式」は、今も日本各地で「追試」されている。
2000年、⽇本教育技術学会会⻑に就任。基礎学⼒を保障する指導法の研究と普及に取り組んだ。
2001年、法則化運動は「法則化運動の会則」にしたがい、解散した。