「できない子こそが正答する」発問を考える
発問を考える上で重視していたのは、
「どうしたら教材をうまく教えられるか」ではなく、
「できない子こそが正答する」ことだ。
子どもは、教師の評定に挑戦しているようでありながら、実は自分自身に挑戦しているのである
子どもは、これまでの自分のカラをうち破り、変化させ、
工夫を加えて何度も挑戦するのである。
子どもは、自分で自分の可能性を引っ張り出しているのだ。
授業とは、教材をめぐるさまざまな子どもの思考の混乱を一つ一つ整理し解決していくことを通して、内容の理解に至る活動である
子どもに対する限りない信頼と自己の行為の結果に対する限りない疑いによってこそ、教室は教育の場たり得ることができる
差別の構造をこわしていくには、この三つが根本である 第一は「楽しい授業をする」こと第二は「百人一首」「チャレラン」などの躍動するイベントをすること第三は「どの子にも友達ができる」ように配慮すること
学年団で取り組めば、ダイナミックな実践もできる
子どもは、もともと伸びていく力を持っている。 その伸びていく力を、助けてやるのが教師の仕事である。
教育の痕跡だけはその子に残っていく
一つの峰を越えると、前方には新たな峰が姿を現す。 「教育する」とは、果てしない挑戦の連続である。 その道程で夢を語り、未来を語るのである。
すぐれた技(わざ)を身につけるには「我流を捨てる」ことが絶対に必要だ