教師が変わって授業が変わる
「教師が変わって授業が変わる」ことを、肝に銘じなければ駄目だ。
「子どもは、授業でこそ変わる」という立場を貫かなければだめだ。
一日にすべての子どもの名前を言って良いところをほめよう
たった一つの明確な指示を与えよ
まず、たった一つの明確な指示を与える。
それができたのを確かめてから、第二のたった一つの明確な指示を与える。
良いか悪いかは子どもが教えてくれる
「子どもの事実」と「自分自身の手ごたえ」だけを指標にせよ
「子どもの事実」と「ズシーンと感動するような自分自身の手ごたえ」の
二つを、その二つだけを指標とせよ。
子どもの姿をそのままうけ入れよ
必死の子どもたちのそのままの姿を「美しい」と感じられることが、
教育における「美の追求」の出発点なのである。
原則は有効だが100%というわけにはいかない。 やはり「その場」「その場」で使い方が微妙に違ってくる。この微調整ができる力が名人・達人なのである。
教師とは、子どものことは見えていないものなのである。見落としているものなのである。もちろん私もそうである。ただ、「見落としている」はずだから それをうめようとしている教師と、「私は見落としていない」思い込んでいる教師とでは大きな差が生まれてくる。
「子どもを理解する」ということは、「あの子はこういう子よ」と俗的な評価をすることではない「子どもが自分自身をどう思っているかということを理解してやる」ことである
すぐれた実践の創造は教師全体に課せられた共同の仕事であり、幾世代にもわたり引き継がれていく課題である