向山は、新卒からの7年間を大田区立大森第四小学校で過ごした。教師修業のはじまりである。
勉強ができる子だけが活躍するクラスにならないように、以下の実践を生み出した。
向山は、「差別のない」「自由で平等な場からの学級づくり」を目指したのである。また、20代でありながら、「通知表の改訂」「児童活動(特別活動)の研究」の中心にもなった。
赴任した翌年の冬には、既存の研究団体に属さない自主的な研究会「京浜教育サークル」を立ち上げる。以降、向山のさまざまな実践研究の拠点となった。
次の大田区立調布大塚小学校では、のちに「向山型」とよばれる数々の授業システムの原型を創り出した。子どもたちが言葉を根拠に討論をする国語授業をはじめ、社会科や理科でも独創的な実践を行う。生活指導主任、校内研究主任、教務主任としても学校を支えた。当時の大田区内61校で、最年少の教務主任であった。
また、「『出口』論争」と「跳び箱論争」が起こり、日本最大の教育運動「教育技術の法則化運動」を立ち上げる契機となったのも、この時代である。
調布大塚小学校では、法則化運動立ち上げ後も含め、11年間を過ごした。
1980年、東京都教育研究員になったのを契機に、マスコミや出版社から仕事が入るようになり、学校外において、NHKの人気番組『クイズ面白ゼミナール』の教科書問題作成委員や『進研ゼミ 小学講座』(ベネッセ)の開発責任者、千葉大学非常勤講師などを務めた。