「子どもの事実」「教師自身の腹の底からの実感」
「子どもの事実」とは、「跳び箱が跳べない子ができるようになったか」「算数テストの平均点が80点、90点になったか」など、具体的で「嘘」が入る余地のない事実のことである。
また、「教師自身の腹の底からの実感」とは、教師自身が「やってよかった」と心底納得できる手応えのことである。
学校現場には、常に新しい問題や新しい事件が続出する。向山は、今の子どもたちと関わるためには、「子どもの事実」と「教師自身の腹の底からの実感」を、評価の基準とすべきであると主張した。
指名なし討論
向山の造語。子どもたちが教師から指名されることなく、自由に立ち上がって討論すること。
思考力・判断力・表現力の育成や、子どもを主体とした多様な言語活動につながることから再評価されている。
実現には、①指名なし音読、②指名なし発表、③指名なし討論の3つの指導ステップが必要である。向山の代表的な「指名なし討論」の授業には、6年国語『やまなし』(宮沢賢治)、4年社会「雪国のくらし」、3年理科「じしゃく」がある。
「自由で平等な場からの出発」-誰でもリーダーになれる
「自由で平等な場からの出発」とは、1972年、山梨で開催された第21次全国教研(全国教育研究集会)における向山のレポートの題名である。
教師として4年目の冬、向山は、全国教研の東京都の代表となり、生活指導分科会にて「差別のない『自由で平等』な学級づくり」の実践研究を発表した。
1 クラスを組織するにあたり、係、当番、班、研究グループを分ける。
2 係活動、実行委員会、委員会活動は、児童の要求で決定する。希望すれば誰でもなれる。
3 それぞれのリーダーは、立候補とし、じゃんけん(またはくじ)で決める。
4 児童の活動の中心をしめたのは、係活動と学年集会だった。
5 学年集会は、すべて児童の実行委員会の手で企画、運営され大成功を収めた。夏休みキャンプファイヤー実行委員、スポーツ大会実行委員、学芸会実行委員、伊豆高原実行委員、夏休みプール大会実行委員、卒業文集実行委員…
向山の発表は、リーダーを決める際の「立候補じゃんけん」をはじめ、全生研(全国生活指導研究協議会)の「班・核・討議づくり」の実践を否定するものであった。
そのため、全国から集まった全生研の実践家から、「どの子もリーダーになれる機会を提供したいという思いは同じでも、集団との関わりを無視してジャンケンで班長を決めることによって、班長と班員の固定化を打破できるという主張が理解できない」「文部省と同じだ」「勉強しなおしてこい」などの、批判を受ける。
向山が提案した「『自由で平等』な学級づくり」の実践は、のちに法則化運動の広まりとともに、20代・30代教師によって追試された。そして、各地で「じゃんけんで民主的な子が育つはずがない」「技術に傾斜しすぎている」「理論がない」などの論争を巻き起こすことになった。
ジュニア・ボランティア教育
学校は、1年間に約1,000時間の授業を行うが、そのほとんどは自分のための学習である。「1,000時間のうち、3時間だけは人に役立つ学習をしよう」として、はじめた運動が「ジュニア・ボランティア教育」である。
1994年2月、向山は『ジュニア・ボランティア教育』(東京教育技術研究所)を創刊。日本初の「ボランティア教育」の雑誌であった。
スキル型教材
「ドリル」は、主に宿題用、自習用として、授業以外でも繰り返し使われる教材である。
向山は「宿題では、学力は身につかない」とし、授業の中で毎日5分間ずつ使用する教材を開発した。
そして、それらの教材を「○○スキル」と名付けた。「スキル」という名称には、勉強の仕方(スキル)が身につくという意味も込められている。
追試
法則化論文に記された「発問」「指示」「説明」のとおりに実際に授業し、その有効性を検証することを「追試」という。
例えば、「バスの運転手さんは何をしていますか」という発問では動かない子どもも、「バスの運転手さんは、運転するときどこを見ていますか」なら一斉に手を挙げる。
このように、すぐれた発問・指示を追試すると授業が変化することから、追試が授業上達の有効な方法として広まった。追試は、法則化運動の中で、向山が提起した重要なテーマのひとつである。
「『出口』論争-教室からの発言」
「『出口』論争」とは、斎藤喜博氏(※1)の「『出口』の授業」(※2)に関する教育論争である。
斎藤氏の「『出口』の授業」は、多くの研究者からすぐれた「ゆさぶり」の事例として絶賛されていた。「ゆさぶり」とは、子どもの解釈や考えに疑問を投げかけ、意図的に混乱を起こして、より深い理解に導く指導方法のひとつである。
1977年、『現代教育科学』(明治図書)誌上で「ゆさぶり」論を批判する研究者と斎藤氏を擁護する研究者との論争が巻き起こった。
向山は自身のデビュー作を『斎藤喜博を追って』(昌平社/1979)とするほど、実践家としての斎藤氏を尊敬していた。だが、擁護派の研究者の反論に強い憤りを感じた向山は、斎藤氏の「『出口』の授業」の記録を子どもたちに「分析批評」の授業の手法を使って検討させ、その事実を根拠として論争に参加した。
『現代教育科学』1980年2月号に掲載された投稿論文「『出口』論争-教室からの発言」の中で、向山は次のような主張をした。
1 授業記録には重要な発問の一部が修正されている。
2 表現が明示性の低いものとなっている。
向山の論理と子どもたちの作文のレベルの高さに驚いた同誌の編集長は、本当に子どもが書いたものかが信用できず、「子どもたちの作文の原本を送ってほしい」と向山に依頼。当時、子どもたちの作文に教師が手を加えることがあったからである。
向山は、すぐに全員分の原本をそのまま送り、編集者を驚かせた。この時の向山の授業は録音されており、すべてが真実であることが証明されている。
(※1)
斎藤喜博(1911-1981)は群馬県の元小中学校教師。校長として、11年間にわたり子どもの表現力を育む実践を展開。「島小教育」として知られている。民間教育研究運動にも積極的に取り組み、教育科学研究会教授学部会や教授学研究の会の設立に携わった。
明治以降、多くの教師がすぐれた仕事を残してきたが、向山の心を捉えたのは斎藤氏の仕事であった。向山もまた、斎藤氏のような仕事を創っていこうと考えた。向山は、氏に会うことはなかったものの、晩年の斎藤氏と何通か手紙のやりとりをしている。
(※2)
「『出口』の授業」とは、著名な実践家で、その当時校長であった斎藤喜博氏が、担任に代わって授業に介入した国語の授業のことである。
「森の『出口』」について、「森とそうではない部分の境界のこと」と解釈していた3年生の子どもたちに対し、「そんなところは出口ではない」と言って、授業に介入。
この「『出口』の授業」は、斎藤氏の著書で何度も取り上げられ、当時、多くの研究者からすぐれた「ゆさぶり」の事例として絶賛されていた。
TOSSサークル
TOSS授業技量検定
跳び箱論争
「跳び箱論争」とは、「跳び箱を跳ばせることが、どうして教師の世界の常識にならなかったのか」という向山の問題提起に関する論争である。
斎藤喜博氏が「15分あればクラス全員に跳び箱を跳ばせられる」と主張したとき、研究者もベテラン教師もこぞって賞賛した。だが、その跳ばせる技術そのものは公開されなかった。
向山は、『現代教育科学』1981年9月号において、「跳び箱を跳ばせることが、どうして教師の世界の常識にならなかったのか」と問題提起を行った。向山は、自身の著書等において、誰でも跳び箱を跳ばすことのできる「向山式跳び箱指導法」(※1)を公開していた。
向山の問題提起に対して、「跳び箱を跳べない子がいても一向に差し支えない」という反論も数多く寄せられた。これらの反論に対し、向山は「もちろん跳べない子がいても構わない。しかし、全員を跳ばせる技術があるのに、それを身につけない教師がいることとは別である」と反論した。
(※1)
「向山式跳び箱指導法」とは、向山が開発した跳び箱が跳べない子をわずか数分の指導で跳ばせられる指導方法である。
跳び箱が跳べない子は、「腕を支点とした体重移動」ができない。この感覚を体験させるために、向山はA式とB式の2つの方法を行った。
「向山式跳び箱指導法」は、TVや新聞、雑誌等で何度も取り上げられ、全国に広がり、何千人もの子が跳べるようになった。
左:A式 右:B式
A 式
① 跳び箱をまたいで座らせる。
② 跳び箱の端に⼿をつかせる。
③ 図のように、両⾜の間に⼊れた両⼿で体を持ち上げさせる。
④ とび下りさせる。
「跳び箱を跳ぶというのは、このように両腕で体重を⽀えることなのです」と言い、①~④を5~6回やる。
B 式
① 補助する⼈は跳び箱の横に⽴つ。
(右利きの⼈は左側、左利きの⼈は逆。以下同様)
② ⾛ってくる⼦どもの上腕を左⼿で⽀える。
③ 右⼿で⼦どものお尻の下を⽀え、⼦どもを送り出す。
この②と③は同時に⾏う。右⼿と左⼿は上へは動かさず、平⾏に動かす。
何回か繰り返しているうちに、⼿にかかる体重が軽くなる。「⼤丈夫だ」と感じてから、2 回ぐらい余分に跳ばせる。このとき、⼿で⽀えるふりをしながら、⼿を引っ込める。
7、8 回くらいで、ほとんどの⼦は跳べるようになる。
跳べたら、もう⼀度やらせる。偶然ではなく、本当にできたことを確認させる。